「文化人とは何か?」 を読んで

テレビや雑誌などの媒体に比べて情報のスピードは比べものになりませんが、本はバイアスが少ない情報源だと思っています。確かな知識を持った熱心な人の考えが、責任ある意見がこめられた本は、その他の媒体に比べて、じっくり自分のペースで読めるという効用があります。著者の素性を知りたければ、今ではすぐスマホで知ることができるし、逆に敢えて予備知識を入れずに読むことだってできます。その本に対して人がどう考えているかも確かめることができます。


社会問題に関する多くの情報に対して自分でフィルターを掛けられない私は、本から積極的に情報を得ることにしていますが、問題は、その著者が正しいかどうかの見極めです。自分の意見と合っているか違っているかではなく、正しい知識のもとに、飛躍せず論理的に意見を持っている著者かどうかの見極めが課題ですlそういう著者を見極めるうえで、よく文化人という言葉を耳にします。教授であったり、弁護士であったり、そういった何人かの文化人が、文化人に対するエッセイを書いている本です。


文化人は、情報の専門性をテレビを通じて、分かりやすく伝える人たちのことだということです。専門的な内容は、当然専門の研究者や技術者の知識が優れているに違いはありませんが、それがどう我々の生活に影響するのかの、専門と庶民のインターフェースの役割をするもの、という風に書かれていました。その中で印象に残った内容を2つ紹介します。


佐倉統さんの、流行の脳科学者について書かれたエッセイです。科学研究の成果は、科学者集団の中で何度もレビューされるそうです。学会などのことでしょうか。科学者たちの中で、懐疑的に検証し、確証が得られた認められた論だけが世間に発表されるそうです。確証がなければ科学としては認められないのだが、マスメディアと連動することにより、不確かな科学論が、世間に流され、注目を浴びることがあるといいます。それを著者は、ネタ科学と呼んでいます。


それがいいとか悪いとかではなく、そういった確実な確証が得られずに、テレビでおもしろく放送されるのは単なるネタだといいます。逆に、検証に検証を重ねて世間の日の目を見る科学をベタ科学と呼んでいます。ネタか、ベタか、見極めるには、感受性、フットワーク、批判力、の3つといいます。その3つを駆使して批評するのが、本来文化人であるはずだが、実際は逆になっているという話でした。


我々が普段見ている、科学の話題。ダイエット商品。に限らず、ニュース番組、企業広告、飲み屋の刺身に至るまで。それは、ネタか、ベタか。ネタに対して真剣に推考する必要もないし、ネタはだたのネタ以上の価値はありません。3つの神器については、特に著者の具体的な意見はありませんでしたが、
私は、感受性は、あれっおかしいな、と思った時に調べる探究心だと思います。それが身になればもっと出世するのですが。フットワークは、一つの意見や味方に固執するのではなく、色んな面から物事を見る、為の行動力と解釈しました。これも面倒で難しい。批判力は、おかしいものに対しておかしいと説明できる力。尚、難しい。


もう一つの印象に残った内容は、南後由和氏の論文の挿絵、「各界成功登山図」です。政界山、財界山、芸能山、官僚山、文化山、各界で成功した方が山頂に笑い、麓からどんどん人が登ってくる。政界の頂きへ続く道半ばから、「落選」で谷底に落ちる人もいれば、経済界では「倒産」で落ちる人もいます。逆に「戦争」で一気に頂きへ駆け上がれる道もあれば、芸能山では「誘惑」が進路を阻む。そういうおもしろい絵です。



そういう見方をすれば、サラリーマンは、財界山という一番大きな山の、広いすそ野の一角にある、就職道という道から登山を開始し、出世道という遥か長い道が中腹まで続く、そんな感じでしょうか。そして私ごときは、30年経って定年になり、ふと気が付けば、2,3合目で、はいアタック終わり、でしょうか。「各界成功登山図」は、そういう意味で、社会全体をイメージするにはとても分かりやすくてユーモアのある絵でした。



私は、今、どの領域についてモノを言っているのでしょうか。もちろん専門的な知識もなく、優れた教養や多くの知識もない。やはりネタとベタを見極める能力をつけるのにも、財界山のふともから手の届く、見える範囲は非常に狭い気がします。出来うる限り、ベタな文化人が誰かを知り、その人の本を読むことです。

「あきらめないでお母ちゃん」 を読んで

吉岡たすく先生の本を読みました。

大阪の小学校の先生で、教育研究者です。ご本人は、教育評論家と言われることを嫌っていたようです。「子供に教わることばかりなので批評できることはない。児童文化研究家にしてほしい」と言われていたそうです。


「子供が考えていることを、大人の価値観で束縛しないように」について
大人の世界とは矛盾するかもしれませんが、「結果」だけを求める社会の価値観を押し付けず、子供の時は、「過程」を大事にする少年少女に育っていってほしいと私は思います。損得の世界で生きなければならない大人は、勘定ができないといけません。中にはそうでない人の為に生きる立派な方もおられますが、なかなか普通の意思ではそうはなれません。子供は様々な個性やタイプを持っています。引っ込み思案なタイプ、リーダーシップを発揮するタイプ、考えてから行動するタイプ。先頭に立てるタイプ、器用なタイプ。大人が考えた損得勘定の物差しを押し付けて、他と比較して劣っているから治せ、というのは違うといいます。大人の価値観や自分の考え方を子供に強要するのはおかしいのかもしれません。人より劣る面を認めてあげる勇気、それを自分が親の立場になったときに持てるか不安です。


「思いやりを持った、自発的に考えたり行動できる子供を育てること」について。
子供の感性の鋭さ、豊かさには、私も甥や姪、友人の子供などと接して驚かされます。「後で遊ぼう」と何気なく言ったことを、ずっと覚えていたりします。自分の子供時代を思い出したりもします。天井の隅が怖かったり、雲の空の向こうを空想したり。あの頃、触れるもの見るものが新しいものばかりだったんだろうと、懐かしくなります。実際に子育てをしているお母さん達にはかないませんので、内容だけちょっと紹介します。思い当たることがあれば、ぜひ図書館で借りて読んでみてください。


親は、子供の限界を知ってあげること。一人でできることは手出ししない。その上で劣等感を持たせない様に、こっそり手助けしてあげること。それが親の思いやり。低学年のときはテストは点数よりも、やる気を出したことをほめてやること。他人と比較して、ただのテストの点が悪いからといって親が一喜一憂しないこと。自発力を養うこと。口で言うのではなく、お母さんが一生懸命なところをみせてあげること。何でもすぐ答えを教えないこと。聞かれたら初めて教える。でも正解は言わなくてもいい。子供は勝手に見つけるから。お母さんは明るくイキイキなこと。元気に笑顔でいってらっしゃい、おかえりなさい、と言ってあげること。お母さんが、完璧過ぎると子供はしんどい。お母さんは明るく元気でちょっとボケてて一所懸命がいい。まわりから「親子で明るくて元気やね」と言われる様な親子になってほしいと思います。


最後に。
吉岡先生自身も教師でいる間、ずっと失敗や悩みを繰り返して、考えてきました。こうした一番子供と接する教師ですら、悩んで見えない正解に向かって、教育を考えてこられました。同じく子供と接する世間のお母さんも、同じように苦労されているのだと思います。正解なんてないのだと思います。ただ子供のことを思いやれる大人になりたいです。小さな完成より大きな未完成であれ。完成した人間などいないと思います。



「いじめの直し方」 を読んで


自分たちだけの世界で閉じられた空間ではいじめは起こりやすいという。いじめを直すには環境を変えなければならないという。私もそう思います。


大人は人との距離の置き方を知っているが、子供は知らない。子供にとって、学校は閉鎖された逃げることができない空間になる。子供は距離の置き方を知らないし、先生からみんなと仲良くしなければいけないと教わる。狭い狭い世界でルールの上に、ノリが悪いから、キモイから、という子供だけのルールができるといいます。


私が聞いた最近の小学校のことを書いて、私の経験からいじめの問題について考えます。


私が知っているある小学校では、いい言葉だけを使うように小学校でルールが決めらています。誰かの告げ口などにより悪い言葉を使った回数を先生がカウントするそうです。やめろっというのも悪い言葉らしい。やめてくださいと敬語を使わなければいけません。「たけし」と呼び捨てはルール違反らしい。子供同士でも「たけしさん」と呼ばなければいけません。丁寧なのかどうかなのか、ただ気持ちが悪い。現に今、そういう変なルールを教える小学校がある。この県の活動は、悪い言葉はいじめに繋がるからだそうです。ビートたけしなんて「なんだこの野郎」は相当悪いのですぐテレビに出れなくなる。悪い言葉使いがいじめに繋がるから、悪い言葉をやめよう、でこの活動になっているそうです。


真摯に相談にのってくれる先生が居れば、本当に幸せだろうと思いますが、こういう学校環境で、子供のことより実績だけを残そうとする先生ばかりな気がします。悪いことをした子供をどついたら、親から訴えられるのだから、先生はどう教えたらいいんでしょうか。近い友人に先生が居ないので悩みは聞けませんが。大人が叱ってやらなくてはいけないのに。変なルールを決めて、いじめ撲滅に取り組んでます。悪い言葉を使う生徒をカウントしてちゃんと生徒を見ています。どっちが子供だろうか。親も親で、人に預けてせっせこ金稼ぎに行くばかりの時代なので、どんどん子供が助長して、弱い子供はどんどん死んでいく。先生たちも成す術がないのではないかと思います。


私は、子供時代、比較的いじめられる側ではありませんでした。ただいじめられている者を見て見ぬふりしていました。それはいじめているのと変わらない。無関心といういじめる側だったと思います。私の小学校時代、貧乏で変なあだ名をつけられていた同級生を、かばう光景を一度もみたことがない。当然私もない。ただ私が見なかっただけかもしれませんが。恐らく私はほとんど誰もが、無関心か知らぬふりをして子供時代を乗り切っているはずだと思います。いじめられる子供が、そう容易く環境を変えられるはずがない。周り百人の子供全員にいじめられているのだから。暴力を受けた子供が一人で警察にいけるはずもない。精神的ないじめを受けた子供が、一人で相談所に相談できる勇気があるはずがない。と思います。勇気を出して行ってほしいですが、自分がその立場だったとすると無理です。


まとめ。
ひとつめ。いじめられている子供は、一人で立ち向かうしかない。味方はだれもいない。幸運だったらいい大人か友人に助けられる。一人で戦えないなら、いじめる側に回って、生きる。そのうち、無関心になって、そういう大人になる。大人になれば、閉鎖空間からは自由になれるという意味では、楽になれる。


ふたつめ。
いじめの問題はなくならない。人間同士、考え方の違いもあるし、好き嫌いだって絶対にある。そんな時に摩擦が生じて、いじめたりする。その時、やめろ、と反抗すべきだが、勇気が出ない子もいる。それを見ないふりをしている者が、一番の問題と思う。その時、間違っていると思っても、見ぬふりをする子供。そして当事者になりたくない大人。いじめ自体が問題ではない。子供は弱いから仕方ない。無関心を装う大人が問題だと思います。

「選挙のパラドクス」 を読んで


日本は民主主義の国なので、公平な選挙で選ばれた国民の代表が、政治を司ってきていると思っていました。実際に、一人一票を投じることができる権利を有し、それが最良な方法(と、社会が成熟していると最近まで思っていた為)そう思っていました。実際は、本当に日本は民主国家なのだろうかという疑問が日々湧いています。あほな民はあほなりに、疑問を一つずつ解決していくことが、一庶民である私の意地です。


年末の選挙では、様々な問題がありました。票割れ、一票の格差投票率の低さ、支持団体、支持企業との繋がり。他にもあるかもしれませんがそれくらいしか知りません。そういった問題を解決し、民意が正しく反映される公平な選挙とはどんな選挙なのでしょうか。集団が決定する最も公平なシステムはあるのでしょうか。


難しい本だったので、アメリカやヨーロッパの歴史や政治家について知識を深めてから、また熟読したいところですが、死ぬまでに読みたい心が生まれることを願うばかりです。佐藤優さん読書法でいうと普通の速読で、気になるところだけ重点的に読みました。


著者は、現代の投票制度の不公平さについて論じています。社会の集団が意思決定する場合に、集団の意思を完全に反映した決定は不可能だという、アローの不可能性定理を挙げて、現在の相対多数投票の不完全さを指摘しています。


もっともシンプルで他にないと思っていた今の選挙。一人が一票。誰かに投票。これは是認投票と言われます。投票したい人がいてもいなくても、誰かに入れるかか、もしくは入れないか。0か1でしかない。1の場合、誰かにいれるとする。でも、他に適当な人がいないから入れたりする。もしくは、自分が入れたい人はマイナーで、どうせ当選できないから、自分の票が無駄にならない候補者に入れたりもする。0の場合、誰にも入れない。支持する候補者が一人もいなければ誰にも入れない様にすることができる。ただ、その場合は、仕事やレジャーや、あるいはパチンコを優先して、投票所に行かない人と、投票結果は、同等の扱いになる。伊丹万作氏のように、政治をしない既得権益者の言いなりになる政治家を選ぶ選挙を棄権する、という人も今もいるかもしれない。いい政治かどうかは今回の本題ではないので、我々の一票が有益となるシステムはどんなんだろうか。是認投票だと、AとBの候補者が票割れした時に、ほとんどの人が推薦しないCが当選することがある。


著者が考える最も素晴らしい投票システムは、範囲投票です。範囲投票とはネットでお馴染みの、「いいお店5つ星評価」のようなものです。同一集団が全候補を採点する場合に効果的で、それは選挙です。いいお店評価は特定の人しか入れないので当てはまりません。ABC三人の候補に、それぞれ複数段階で評価する方法です。Aは5点、Bは4点、Cは1点。是認投票の場合は、AとBで票割れが起こるが、範囲投票だと、票割れによりCが選ばれる可能性はない。


現行の日本の選挙システムを範囲投票に変えるのは難しいのでしょうか。マークシート採点にすれば効率よくできそうな気がしますが、法律で決められているのでしょうか。公平性が守られるのであれば、是非この範囲投票の実現性について考えていきたいと思います。票割れについては対策できたとして、一票の格差については選挙区が細かく区分けされている限りは、格差が生じるので、選挙区を拡大するなりという、別問題だということだと考えました。票割れの課題は、政治的難題のひとつであり、数学的論理によって改善しようとする試みがされています。


本題から外れるかもしれませんが、人はその時の快楽でしか物事を判断しません。実際に私は、自分が死んだ以降の時代についてはほとんど何も考えてもいません。よく考えたとして、甥っ子や、友達の子供が大人になる頃くらい、いや、果たして20年も先のことするも私は考えていない。そう考えると20年も先の将来など、一体誰が予測しているのでしょうか。ローン残高は予測できますが。。。選挙システムは極端に言えばシステムの話しなので、民意がダイレクトに伝わる方向にはすぐ変わると思いますが、その民意自体の正しさについては、どう考えていかなければいけないのでしょうか。

「スイス探訪」 を読んで

「黒いスイス」の著者である福原氏は、グローバル化の流れに乗ることは、必然で正しい、という前提でした。過去の人権侵害、難民受け入れ拒否、相互監視社会をクローズアップしてスイスの閉鎖的で、保守的な考えが問題であると危険視されていました。「スイス探訪」の著者、国松氏も、スイスの閉鎖的で、保守的な考えがあることを言われています。


2冊のスイスの本を読み比べて違う点はグローバル化に対する考え方です。「黒いスイス」は前述したとおりで、「スイス探訪」では、世界基準にやみくもに合わすべきではない、ということでした。グローバル化がもたらす弊害については、中野剛史氏の本で書かれてあった通り、現時点では一部の国際企業のみが利益を受けるシステムになっており、現実の国際秩序が完全なものからほど遠いと言われています。今回のアルジェリアの事件をはじめ、中国、朝鮮半島の不安定さが示していると思っています。


直接民主制の元で築かれた文化圏を守りつつ、国際協調と合わせていくことが必要、という国松氏の意見に私は賛成です。国際協調はあくまで、双方の利益が同じにして、当然相手の国が信頼できる安全な国で自立した国であることが前提だと思うからです。


歴史の話しになります。過去スイスは建国以来、ハプスブルグ家、フランス軍、ナポレオン、ドイツ軍、国際連盟国際連合と、多くの侵食、統一の力から自国の領土を守りぬいてきました。直接民主制を基礎に、自主独立の精神が養われ、国民が常時意識して生きているからだといいます。「直接民主制を基礎に、自主独立の精神」と簡単に書きましたが、一言で書けるほど安易にスイス人が手に入れたものではないことを、この本を読んで分かりました。


スイスと日本の類似点と相違点について書かれています。ともに天然資源に乏しく、人的資源に頼り、歴史・伝統文化が残る。相違点としては、人口規模。一番には政治に対する姿勢だとしています。自分たちの政治は、自分たち自らが決めるという政治への責任の強さがありす。企業と官僚、官僚のいいなりの政治家に任せる日本とは全く違うと思います。


国松氏は直接民主制による地域主義が閉鎖的な要因を生み出しているのは確かと認めつつ、ヨーロッパ内では閉鎖的だとしても、ヨーロッパ外にはオープンで気質があるといいます。また、外国人の帰化条件は厳しいが、難民の受け入れは積極だということでした。これは「黒いスイス」に書かれていなかった視点でした。


スイスの人口は720万人。26の州。2800の市町村があります。スイスは直接民主制なので、何でも自分たちで決めるという意識が強いそうで、単純計算で1市町村2500人くらいとして、大人たちが1500人くらいでしょうか。街の広場に集まってワイワイ決め事をしている写真が載っていました。連邦制や、地方分権という考え方があるように、霞が関に一極集中するのではなく、もっと国民が政治を意識して、自分たちの生活や土地のことを考えた意見が反映される政治を進めていくことが必要だと思います。


日本と同じように長い歴史がある国で、自然や文化を大切にする気持ちが強い国民だと印象があります。グローバル化の対する課題を、スイスの人はどう乗り越えていくのか、とても興味があります。

「戦争責任者の問題」 を読んで

騙されたといえば、一切の責任から解放されるものではない。
騙されたといえば、無条件に正義派になれるわけではない。



「不明を謝す」という言葉は、知能の不足を罪と認めること。これまで読んできた本で知っていることは、敗戦後、米軍支配時の日本国民は、手のひらを返すように、軍を非難し、戦争責任者を探し始めたということです。



文化運動の団体に名を連ねていた著者が、その運動の実態が戦犯人探しだということが分かった時点で、書かれたエッセイです。


実は、この「戦争責任者の問題」というエッセイは、電子書籍しかないようでしたので、伊丹万作エッセイ集 大江健三郎 編 を図書館で借りたところこのエッセイを含んでいました。このほか、戦前映画監督としてのエッセイを複数まとめられた本でした。大きな市の図書館でも、書庫から引っ張り出してくるような、すたびれた本でした。


「不明を謝す」。知能の不足を罪と認める。何故罪になるかは、無知という知的現象が行動と結びつくと、意思や感情を圧縮したものとなるからと説明しています。戦争中は、国民同士がお互いをだましあうことで自分の安全を確保し生きてきたのだと思います。


私は、大東亜戦争に陥った国内の主要因は2つあると考えています。憲法で定められた統帥権の不明確さにより、政府が軍を抑えれなかったことと、国民世論が戦争を煽り止められなかった風潮です(「昭和16年夏の敗戦」より)。後者の要因についての考え方を整理できるエッセイでした。


昭和20年3月。硫黄島が落ちて本土無差別空襲が始まる頃に書かれたエッセイ、「戦争中止を望む」で著者は、無謀無計画な戦争は一旦終わらせるべきだと唱えた平和主義、戦争反対者でした。そんな世論の風潮に流されない方でさえ、国が敗れることは家族、親友、隣人を全て死に絶えることだと思っていた。当時は戦争に勝つ事しか考えていなかったと書かれています。だから自分は戦争責任がだれかという犯人をさがす気にはなれない。自分もそうだったからと。


またエッセイの中で、封建社会も、基本的人権も、自力で打破できなかった国民というのが印象的でした。戦争の熱狂と偏見が和らいだ現代で私は生きているはずです。本当に社会に必要な製品、サービスを供給することに貢献し、正しい政治を実現するために、よりより民主政治を考え、自分の権利を守るための日本の憲法や法律を理解し、語り合うことができているのでしょうか。

「黒いスイス」 を読んで


スイスにも一度も行ったことがありませんが、私はスイスという国が知りたい。日本の国防の考え方を整理する上でスイスがヒントなるかもしれないからです。検索で見つけたのはこの本でした。私自身がいいイメージしか持っていない国なので、逆に悪い面から知る方が分かりやすそうですし、まずはスイスを知る上でおもしろいだろうと思い読んでみることにしました。


理想の国スイス の実態を、ご自身の6年間のジュネーブ特派員時代の取材と実体験から書かれています。内容はスイス批判です。スイス人がいかに人権侵害や差別の意識を持ち続けているか記しています。


前半ではスイスの歴史から、
・移動民族ロマ族の話し
ユダヤ人のパスポートへ識別子「J」の話し
・スペイン民主化戦線で戦ったスイスの義勇兵への話し
永世中立国核武装の話し

後半では、理想の国というのがウソである事例、
・相互監視社会
・ネオナチの増加、民主主義を放置した麻薬政策
・スイス国民党ブロハー氏の意見
これらの引用より、説明しています。


スイス国民、スイス国家の閉鎖的な思想、狭くて古い民主主義社会への固執が、悲惨な過去を生み、人権侵害や、差別につながり、表には中々でないが国民の心に今も残っていると言います。


著者がこの本で最も言いたかったことは、こうだと思います。グローバリゼーションで、異民族異文化が融合していくことが当たり前になってきた時代で、閉鎖的で差別的な考え方や文化がスイスに残っていることは、時代に逆行している。人種差別思想を生み出す温床となっている。だからスイスは理想の国ではないと説明しています。


私は著者が経験され取材された様に、直接当事者の話も聞いていませんし、ヨーロッパの歴史も深く知りません。スイスは2度の世界大戦をど真ん中で経験した国というのは知っています。特に、ドイツとフランスとの大国との戦いを目の前にして、スイスがその中で強国の侵略を受けずに生き延びる手段を模索したはずです。どちらにつくか。どちらにつけば国民が生き残れるか。


私の意見は、著者と違うところがあります。
グローバリゼーションだからといって、手放しで異民族異文化が融合していくことは正しい人類の流れとは思えません。双方がお互いを尊重でき、価値観を共有できてこそ、初めて融合できるのだと思っています。相手が危険な思想、危険な国家であれば言うまでもないと思います。思想や文化を無視して、国と国の交流ができるなんて思いません


著者が実際にインタビューした、スイス国民党のブロハー氏との会話そのものだと思います。ブロハー氏は、こう言ったそうです。「国際的な責任とは、各国が自分自身の責任を果たすこと。他国の援助に頼らないこと。経済的に自立すること。」。政治家が行う中央集権政治では非民主主義だ。村、町、国の単位があるのに、EUにまで加盟すると、フランスやドイツの専制化におかれ、ますます個人の意見が反映されなくなる。


著者が言うように、国益と人道は必ずしも一致しません。その通りだと思います。スイスは自分たちを守ってもらわなくていい。そのかわり誰も守らない。自分は自分で守れと言っていることに繋がっていると思います。自国国益と、他国の人権や命。どちらを守るか。難しい問題です。だがスイスは自国国益を選んだ。それだけだと思います。他国の人権や命を守れとなると、いま世界中の多くの国は、他国の人権や命を無視しているので、黒い**と紹介させることになります。黒いが付かない国などほとんどない様に思います。

スイスを、理想の国という幻想だけで判断するのではなく、スイスという国ができた経緯や、スイス国民の考えた方を知ることができました。スイスは地方分権が進んでおり、地方の役割が大きいということもわかりました。直接民主制の住民集会という、すばらしい政治に対する考えが根付いている文化があるということもわかりました。また、社会性でいうと、閉鎖的、排他的となる面があるということもわかりました。


追記:1/18 国家は暴走する危険がある。これまで国力ある多くの国が自分たちを制御できずに暴走してきました。スイス人、スイス国家に冷酷な一面が一時一部あるにせよあったにせよ、逆に言えばそれはスイス自らの暴走と他国の暴走を防ぐ、限られた方法の一つなのかもしれません。そして少なくとも、誰もが住みたいと思える美しい国が実現できているのであれば、そこに住む国民の不満が増幅する可能性も、それを利用する指導者の台頭の可能性も、少ないのではないかと思います。