「永遠の0」 を読んで


映画も観て、原作も読んだのは、これが初めてです。


現代に生きる主人公が、戦争とは何か、特攻とは何かを、問題提起していき、祖父である元飛行兵や関係者へのインタビューの中から自分たちの答えを探していくストーリーです。


大東亜戦争の流れを時系列で読み進めていけます。開戦当時の戦闘機性能とパイロット達の技能の高さ。その驕りと参謀達の保身による多くの作戦ミス。追い詰められた末の決死の特攻作戦。主人公の祖父は、架空の飛行兵だと思いますが、彼に関連する出来事や人物の多くは実在しています。また、話しの中で、登場するひとりの新聞記者と、元飛行兵の論争は、現代の平和に対する考え方の根本だと思います。


戦争は怖くて当時の歴史はよく知らない方は、この機会に是非一度読んでみてください。



生きて帰りたい、ただ平和に暮らしたいと、願った人がなぜ特攻したのか。特攻を命じた軍司令。その軍部と戦後の官僚。マスコミの扇動に踊るされる国民。現代に通じる歴史がよく分かりました。


正しいか間違っているか別として、自分だけ意見が違っていても、信じて貫いて実行できる人は、とても強いと思いました。

「歴史認識 消せぬ火種」 の記事を読んで

最近問題になっている、首相の河野談話に対する批判と、橋本市長の従軍慰安婦に対する発言についてのある新聞の記事を読んでの感想です。


新聞の見出しには、 
・維新首脳の「体質」露呈 
外交問題発展の可能性 
・橋本代表の発言と問題点 
など。



主な人物の発言としては、経団連米倉会長が、「日中経済関係は重要なので改善し強化する必要がある。」と、彼らの発言を批判したこと。元慰安婦支援団体の代表が、「慰安婦は犯罪行為である。それを擁護する犠牲者を冒涜する」と言われていること。私が、これらの件について問題とは全く思っていない、ということは別として、この記事の最初からこれらが問題であると、決めていることが問題と感じる。色んな意見があっていいはずだが。



金儲けの任を経済界から担わされている人の意見は、間違いなく中国市場で儲けようとしている数多の企業のお金儲けの考えに傾斜する。事実でない歴史を発信し、利益を得ようとする人を支援する人の意見は、それで日本批判、反日感情を煽ろうとする、日本内部の中国・韓国の勢力に力をつける。中立な、双方の国の、歴史学者の意見と世界の意見を全く載せずに、首相と市長の発言の中身が何も検証されていない記事を載せ、とにかく、ワイドショーのように、彼らの発言の数日間の記録を綴り、ただ、歴史問題、女性軽視、と書き立てるこの新聞。そこに、中立な立場で真実を伝えるジャーナリズムのナンタルやはあるのかと思う。ナンもない。



軍と売春、戦争と侵略、勝者が正義、そんなことは、人類歴史を客観的に見れば、人間の性であり明らかだ。暴力を振るう者もいれば、強姦するものもいる、敵でも助けるものもいれば、虫けらのように殺すものもいる。精神的に弱い者は錯乱する。そして、そんなグログロした戦争の世界を作りだしておきながら、左団扇で儲けを得るのは一部の既得権益者で、人生を台無しにされて、生きるか死ぬか瀬戸際で死ぬまで戦う命令をされるのが、かつての日本兵であり、イラクで戦う若い米兵である。



新聞はこうまとめる。野党からの追及を受けて、首相は逃げの答弁が目立ったとする。米議会調査局が「首相を強固な国粋主義者」と言ったことを紹介している。この態度が続けば、強固な国粋主義者というイメージが固定しまう恐れがあるとする。



誰を気にしているのか。誰からそう書けと言われているのか。首相の発言を直接聞いたわけではないが、逃げではなくこれ以上言っても無駄、なのではないか。知ろうとしない社会と団体に、いくら投げかけても、砂上の楼閣。恐らくこの記事を担当した人、もしくはチームがそうなんだろうけど、何かの圧力を受け、自分の意見を無くしてまとめているとしか思えない。来月から私は読む気がなくなったので、この新聞をとるのをやめようと思う。



戦争の中の男、男を相手する女。戦う男。戦った後に、絶望に暮れた後、今日も生き延びた。女。数分でコトを済ます。どこの軍隊もあたりまえ。中学生が自慰行為するのと変わらない。それを言葉で言わなければ分からないくらい。一回でもまじめにアジアの歴史を勉強してから、一生を終わった方が、そのまま死ぬより幾分ましか、と思った。

「社会の真実の見つけかた」 を読んで


本当は堤さんの別の本を読みたかったのだが、借りられていてこの本になった。ジュニア棚にあって、まず私が読むには丁度良いと思ったが。。。


自由と民主主義が、アメリカには無い、ということが本書でわかる。攻撃させ、悪を作り、愛国心を植え付け、兵士を量産する。経済徴兵制で人生を奪われた若者たち。派兵先での戦闘死者数より自殺者の方が多い帰還兵たち。ジャンクフードばかり食べさせられ、治療費を払えない子供たち。市場主義が介入した教育現場でバサバサ切られていく先生たち。


私たちはネットのある時代に生まれた。アラブの春も、尖閣衝突事件も、米軍ヘリの虐殺も、中国の弾圧も、アメリカが戦争を始める常套手段も、インターネットがあったから伝えられた。そして多くの歴史の真実も。


有意義に利用して真実を知ろうとすることが必要。背反として監視される危険性も十分にあることを認識すること。虚偽や不正確な情報が混じる可能性も十分あるが、感情や立場に惑わされず、他と比較しながら自分で判断すること。


選挙の大切さを知り、自分が投票した各政党、各候補者が、選挙当選後の活動と、実績を確認すること。与党野党の全体を見ながら、政策や法案の理念が企業、マスコミ、他国の利権に飲み込まれていないかを確認すること。


マスコミは、記事や報道によって、過渡的に中立の立場を崩して、政府と企業と結託した報道をしていないか。誰かが得する仕掛けになっていないか、確認すること。


政府は、テロをあおっていないか。マイノリティを弾圧していないか。そういった国の政府に、日本政府がバレないように加担していないか、確認すること。


真実を伝えようとしている者はだれか。私はいつも目標ばかり立てて、計画倒れなので実行していく。

「一戔五厘の旗」 を読んで


良いものは良い。悪いものは悪い。その時に良いと思っていても、50年後に振り返ると、それになんの意味もなかったことがたくさんあります。我々はいまを生きているから、今良ければいいかもしれないが、50年後に生きる者にとっては大変な迷惑なことがたくさんあるかもしれません。

暮しの手帖という雑誌があります。ひとつも企業広告のない生活雑誌です。内容は、衣食住をはじめ、掃除や洗濯、片付け、考え方など、普段は気付かない生活の知恵を、教えてくれる便利な雑誌です。まだ2冊しか買ってませんが愛読雑誌に認定しました。最近の女性雑誌の読者モデルさんの綺麗な部屋作りや一日の生活の紹介ブログも、テレビの著名な文化人の言葉や歌詞も、単純な暮らしや思いやりの原点に戻って考えると、何だか当たり前のことを遠回しに遠回しに言っているだけのような気がして、熱狂するほどのことかなぁと思えたりします。


花森安治さんはその雑誌の初代編集長だった方です。もう30年くらい前に亡くなられました。花森さんがその「暮しの手帖」で載せられた多くのエッセイの中のうちの、30編がこの本で紹介されています。どのエッセイも、評論家の目線、政治家の目線、企業人の目線、ではなく、一庶民の目線で一庶民の生活を第一に書かれています。


内容は、迫力ある写真を交えながら、アイヌ勘定、北海道の戦前戦後の開拓の違いから話しは始まり、絨毯爆撃の焼野原こそが、戦場だったという戦中の話し。戦後高度成長時代の商品の洪水と、広告の多さの話し。日本人の生活スタイルの変化の話しです。


会話のピンポンの話しがでてきます。私は私の人生に登場する人たちとうまくピンポンできているだろうか。打ってきた球と違う球を打ち返してはいないだろうか。問題の球を私の社会はちゃんと打ち返そうとしているだろうか。未開社会への逆戻りしてはいないだろうか。そんなことをかんがえさせられました。


今、暮らしは蔑まれ、大地や海は平然と汚染されている。間違いない?だが、庶民には、楽しいレジャーやイベントや食べ物はたくさんあります。まるでにんじんを下げられた馬でしょうか。植民地にならないために、祖父たちは何を守り何に抵抗し何と戦ったんでしょうか。私たちはその、残された土地で、何を求めているんでしょうか。


戦後20年。昭和40年。花森さんはすでに懸念されていました。「商品の洪水は気持ちを変えた」「権力と金力に屈せず正しいことをする」こつこつと、消費者、庶民の目線にたち、周りが高度成長時代の中でも逆流し、現代に通じる生活の知恵、政治に対する意見を述べています。私はこの本からヒントをもらい、それを身近な人から学びたい。なぜなら私の周りには手本とする人がたくさんいるからです。逆に、私の意見や考え方も、しっかり人に伝える努力をしていきたい。


今は平成やから。昭和やないで。50年前の本読んだって。そうやけど、手離しに昔がいいというわけではなく、昔から学ぶことの方が、多いと思うのは、人間は過去に同じ経験をしてきているからです。2000年のあいだ哲学は、人間は生きること死ぬことの意味をずっと探り続けてききました。先人が乗り越えてきた経験から学ぶことは多いと思う。日本文化、日本人の考え方を、私は誇りに思う。外国のひとに胸を張って自慢したいことがたくさんあります。大切な生活の心を学び、もっと人生を謳歌し、もっと人と議論のピンポンをするために、これからも読んでいきたい雑誌と、またじっくり読み返したいエッセイです。

「アーロン収容所」  を読んで



会田雄次氏は、復員後、神戸大学助教授となり、日本文化や西洋文化、歴史や人文学に関わる本をたくさん出版しておられます。出兵される前からこういった分野の勉強をされて、ビルマ戦線とアーロン収容所での強烈な経験が、会田さんの人生観にさらに大きな影響を与えたのだと思います。


私はこの本を読んでも、会田さんが味わった苦しみや絶望感を、考え切れるとは思いません。たまたま自分がまだ生き残っていて、明日は自分が死ぬかもしれない絶望感。戦争が終わり、もしかして生きて帰れるかもしれないというかすかな希望。そして希望がかなった後に生まれる次なる欲望。そういった極限状態からの人間の心理が描かれています。


私が捕虜なら、極寒のシベリアで凍えて働かされることや、シナの収容所で憎しみの混じった拷問を受け続けることと比較すると、糞尿掃除させられてイギリス人に人間扱いされなくても、奴隷として生き続ける方が、プライドはありませんが耐えられる気がします。


ビルマの日本人捕虜の多くは、日本人の特性である手先の器用さと、ずるがしこさと(良く言うと暗算できて計算高く教育水準が高い)、長い物には巻かれる卑屈さを発揮して、生き抜いてきた話しが紹介されています。私がこの本を読んで初めて知ったことは、同じ日本人捕虜でも、元将校と元兵士とでは、立場やプライドの違いから、より卑屈になりきれない元将校の捕虜が、長く辛い思いもしたということ。そしてもうひとつは、戦闘下の極限状態で素晴らしい能力を発揮した者が、捕虜生活や、安全な世界では必ずしも能力を発揮するとは限らないことでした。


そういった捕虜生活の中で、貧しさとひもじさから、卑屈になり盗みや悪だくみを働く日本兵捕虜(著者たち)に対して、「日本人は自分の国が正しいと思って武士道で戦ったのだろう?」と怒るイギリス人。「ビルマは昔は大国。イギリス、日本、またイギリスに支配される。イラワジ川の流れと同じ」と諦観の教えを説くビルマ人。「またイギリスを反撃して追い出してほしい」と願うインド人。これらの言葉が印象的でした。


日本はアジア解放という理想を持っていた、というとさまざまな意見があり、独りよがりに終わったというイメージが強いですが、日本人が思っていた理想と同じように、アジアの国々の人は長く欧米の支配されていた歴史からの解放を望み、日本に理想を託していた人はいたのだと思います。敵国であるイギリス兵士の中にも、差別意識のない者は、お互いの国が何の為に戦うかという理想を認めていたということなのでしょうか。共産圏と自由主義圏との戦いが終わりましたが、次は自由主義の中での欲望の社会が暴走し始めています。それは、危険で貧しい国々から搾取することで、豊かな国々が成り立っていることに気づいていないことが証明だと思います。


西洋のヒューマニズムの限界という副題です。西洋人のアジア人に対する人道の考え方の限界という意味だと思います。これからの世界は、アジア、アフリカが、後進国として差別されることなく、同じ教育同じ生活を送れることだと思います。こういうことを広めるのは、日本のヒューマニズムが一番合っているのではないかと思います。

「誰が中流を殺すのか」  を読んで

アメリカの中流階級が殺され、アメリカが第三国に墜ちる日がくる。


情報、交通のインフラの遅れ、教育の衰退、犯罪の増加。失業者の増加。カード返済の滞り。住めなくなった家の増加。巨大化した金融業の不公平な冨の分配。メディアは真実を伝えず、軍事的に強国でも、経済は停滞、戦略的に破綻。


現状は酷いようだ。国土も人口の規模も大きい分、改善するにはより大きなパワーと忍耐が必要なのだろう。もともと、開拓民で、既存を破壊し、自分たちの都合のいい生活を構築していった民の末裔だから、それがもしDNAとして関係なかったとしても、あの広大な国土と大量生産、大量消費社会の中で生きれば、人と分け合う、限られたものを効率よく使う、できるだけ最小限に使う、などという発想や気持ちは出てきにくいだろうと思う。


アリアナ・ファヒントンさん 「ハフィントン・ポスト」の創始者。同ブログをAOLに売却し、現在はAOLハフィントンポストメディアグループ社長兼編集長。06年〜11年、タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出された。アメリカが第三世界へ墜ちること食い止める手段は、国民の生活や発言に縛りをかけている特別な利益団体、いわゆるロビイストから政治を取り戻す必要があるという。


だが、現状に直面してもウォール街の改革は進まない。超富裕層だけが儲かるように法案が通る。技術が海外へ流出していき、第3次産業が盛んになり、産業が空洞化する。アメリカの多くの問題を解決する効果的な方法は民主主義だが、民主主義の機能が失われいて、企業の利益によって政策が支配されている。これをコーポラティズムという。彼らは、革新を求め、前へ前へ食いつぶして進むことが新しい考えだと称賛され、それをみんなが正しいと思い実践し、それが生きる力の源だと信じている。合理化だけが目的の革新は幸せではない。全く同じ道を進もうとしてはいないだろうか。日本に当てはめてもそっくりそのまま同じ問題を抱えている。


形ないものに感謝する、モノを大切に使う、食べ物を粗末にしない、という文化が、日本にいつの時代からあって、どの階級の人間まで持っていたかはわからないが(そういう専門知は民俗学なのだろうか。。。)、多くの日本人が今もそれを持っているはずだが、一人一人が持ちえていたとしても、トップが利権に動かされる社会構造であれば、一人ひとりが思いを持つ無意味さといったらない。日本人以上にアメリカ人がそれを持っているとも到底思えない。


アメリカが第三世界へ堕ちる日は必ずくる。盛者必衰。完全なものがないことをアメリカ人にしろ、日本人にしろ、世界が認識しなければならない。ロビイストはそれを悟っているから今を栄華しようとするのか、わからない。だが、ロビイストたちの目的がそれだとするとあまりに情けない。政治経済や社会学の専門知を持っているわけでもないが、社会は、利益ではない、道徳が正しいはずだ。正義ぶらなくても悪者ぶっても、正しいものは正しい。利益ではなく、道徳を重んじるという価値観を、企業も個人も国家も持たなければならない。


ロビイストの妨害を潜り抜け、アメリカが立ち直るには、中流階級に冨が分配される社会になる必要がある。ガバメント2.0、教育改革、インフラ大整備。中小企業と新ビジネスの支援、優秀な人材の輸入。ウォール街の改革(金融商品の規制、銀行業務と証券業務の分離、大銀行の解体)。


大切なのは、そういった改革の中にある、何を求めるかという価値観だと思う。便利さ、快適さだけを、求める生活を、アメリカから変えてほしい。目指すことが今までと同じであれば、一人一人はロビイストと変わらない。一台のポンコツを修正しながら大事に乗るアメリカ人であってほしい。特定の考えを持つ団体が政治へ口出すことを遠ざけ、経済や企業の欲望が遠ざけられ、より人民の人民による人民の為の政治を、あるべき民主主義の国を再建して復活してほしい。


アメリカ人が変われば、世界が変わるかもしれない。アメリカが変わらなければ、日本は変わらない。

「ダメ情報の見分けかた」 を読んで


チキさん
リテラシー論は、市民が罪のない被害者とすることが多い。歴史はひも解けば市民こそが関わっていた。これは伊丹万作さんの「騙されるものの責任」が、「騙されてなお騙すもの」に変わることを意味するかもしれません。流言を拡散する人は、自分こそがリテラシーがあると思い込んでいる。人が真実にはたどり着けないというのは、全ての専門知を手に入れることは、どんな天才にもできないからでしょうか。人は自分に都合のいい意見に従ってしまうので、自分が社会の理想をどう求めるか、事実や価値観の論議を繰り返すしかない。 リテラシーの競い合いではなく歴史から謙虚に学び、情報を個別に検証していくしかないとまとめています。

飯田さん
人は見たいものを見る。市民が無知なのではなく、その方が合理的な選択になる状況がある。リテラシーを求める効果がない。そしてリテラシーは基礎能力でしかなく、専門知の見極めに役に立たない。初めは「合理的な選択が正しいとはいえない。」と憤りながら読み始めました。社会問題や経済政策の専門知識を理解するための投資に得られるのは知的好奇心を満足するのみで、居酒屋で社会問題について語って女の子にモテる時代でもなく、政策より自分の仕事に関わる専門分野の知識習得に熱心に投資した方が便益が大きい。解決はリテラシー習得の便益を伸ばすこと。先ずはコスト下げること。コストを下げる方法としては安易に示させるわけはなく、無内容を見抜くこと。定義を引くこと、データによる検証力の3点。コストを下げたところで、リテラシーを極めた後の利益はすぐ形になるものではないかもしれませんが、リテラシーを求める便益についてはとても納得できました。

鈴木さん
リテラシー自体が中立ではない。人が中立であることはあり得ないから。対策は何が社会にとって正しいか、何が受け入れられるかという価値論争を含む事実を直視し、そのリテラシー論が誰に向けられたものかを問い直す。「人が中立でない前提だが具体例は?」わかりませんでしたが、政治的価値観、立ち位置を客観視できること。個人の自由と共同体維持の矛盾。偏った情報の中から自分の立場を見定めて、発信していく力。ただ文句を付けて見分けるだけでは済まされない。偏った情報に対してカウンターとなる情報を影響力ある形で流通させるスキル。人の価値観や好みに中立はない。どんな社会がよいか価値判断を繰り返し、避けられない不一致を受け入れられる公共文化を作り出すことが公正な社会を達成する。難して良く分からない内容でした。


最後にまとめ。
リテラシーという考え方自体が中立ではなく、社会には中立ではない多くの矛盾が存在している。必ずしも中立ではない自分の価値観や道徳を客観視し、リテラシーを広めていくことが、自分にも社会にも役立つ、ことを確認できるようになること。避けられない不一致、相手の考え、文化を認め、人と議論し交わしていくことによって、社会の理想を求める。