「いじめの直し方」 を読んで


自分たちだけの世界で閉じられた空間ではいじめは起こりやすいという。いじめを直すには環境を変えなければならないという。私もそう思います。


大人は人との距離の置き方を知っているが、子供は知らない。子供にとって、学校は閉鎖された逃げることができない空間になる。子供は距離の置き方を知らないし、先生からみんなと仲良くしなければいけないと教わる。狭い狭い世界でルールの上に、ノリが悪いから、キモイから、という子供だけのルールができるといいます。


私が聞いた最近の小学校のことを書いて、私の経験からいじめの問題について考えます。


私が知っているある小学校では、いい言葉だけを使うように小学校でルールが決めらています。誰かの告げ口などにより悪い言葉を使った回数を先生がカウントするそうです。やめろっというのも悪い言葉らしい。やめてくださいと敬語を使わなければいけません。「たけし」と呼び捨てはルール違反らしい。子供同士でも「たけしさん」と呼ばなければいけません。丁寧なのかどうかなのか、ただ気持ちが悪い。現に今、そういう変なルールを教える小学校がある。この県の活動は、悪い言葉はいじめに繋がるからだそうです。ビートたけしなんて「なんだこの野郎」は相当悪いのですぐテレビに出れなくなる。悪い言葉使いがいじめに繋がるから、悪い言葉をやめよう、でこの活動になっているそうです。


真摯に相談にのってくれる先生が居れば、本当に幸せだろうと思いますが、こういう学校環境で、子供のことより実績だけを残そうとする先生ばかりな気がします。悪いことをした子供をどついたら、親から訴えられるのだから、先生はどう教えたらいいんでしょうか。近い友人に先生が居ないので悩みは聞けませんが。大人が叱ってやらなくてはいけないのに。変なルールを決めて、いじめ撲滅に取り組んでます。悪い言葉を使う生徒をカウントしてちゃんと生徒を見ています。どっちが子供だろうか。親も親で、人に預けてせっせこ金稼ぎに行くばかりの時代なので、どんどん子供が助長して、弱い子供はどんどん死んでいく。先生たちも成す術がないのではないかと思います。


私は、子供時代、比較的いじめられる側ではありませんでした。ただいじめられている者を見て見ぬふりしていました。それはいじめているのと変わらない。無関心といういじめる側だったと思います。私の小学校時代、貧乏で変なあだ名をつけられていた同級生を、かばう光景を一度もみたことがない。当然私もない。ただ私が見なかっただけかもしれませんが。恐らく私はほとんど誰もが、無関心か知らぬふりをして子供時代を乗り切っているはずだと思います。いじめられる子供が、そう容易く環境を変えられるはずがない。周り百人の子供全員にいじめられているのだから。暴力を受けた子供が一人で警察にいけるはずもない。精神的ないじめを受けた子供が、一人で相談所に相談できる勇気があるはずがない。と思います。勇気を出して行ってほしいですが、自分がその立場だったとすると無理です。


まとめ。
ひとつめ。いじめられている子供は、一人で立ち向かうしかない。味方はだれもいない。幸運だったらいい大人か友人に助けられる。一人で戦えないなら、いじめる側に回って、生きる。そのうち、無関心になって、そういう大人になる。大人になれば、閉鎖空間からは自由になれるという意味では、楽になれる。


ふたつめ。
いじめの問題はなくならない。人間同士、考え方の違いもあるし、好き嫌いだって絶対にある。そんな時に摩擦が生じて、いじめたりする。その時、やめろ、と反抗すべきだが、勇気が出ない子もいる。それを見ないふりをしている者が、一番の問題と思う。その時、間違っていると思っても、見ぬふりをする子供。そして当事者になりたくない大人。いじめ自体が問題ではない。子供は弱いから仕方ない。無関心を装う大人が問題だと思います。