「絶望の国の幸福な若者たち」 を読んで


この本を選んだ動機は、本屋で立ち読みした時に、デモに参加する若者、熱狂的にワールドカップを応援する若者のナショナリズムついて書かれてあったことと、自分がおじさん世代になり、今の若者の考えを知りたくて26才という若者当事者である著者が書いていることでした。


1年以上前に買ったのですがなかなか進まずに止まっていました。



よく言われるのは、「最近の若者は、、、」という言葉ですが、いつの時代も、言われていたというのは、よく聞く話です。おじさん世代は、時には若者の世代を、「最近の若者は、、、」と言って異質なものとして捉え、「若者の力を信じる、、、」とかいうときは、協力させるものとして利用してきたといいます。


著者の調査でわかったことは、社会には不安を感じるが、今の身近な生活は満足という若者が多数いて、非日常(祭り)を望み、つまならい日常から脱出できるチャンスを狙っている。自分たちの自己表現と承認作業(他者に認められること)が、デモ参加の目的とならないようにしなければいけない。市議会議員になって市政を変えたり、官僚になって法改正に一生を捧げたり、と言うことに比べれば、デモが社会に与えるインパクトは皆無に等しいという前提を理解しなければいけない。


また、もし戦争が起きたら国のために戦うと答えた割合は15%で、世界ダントツで低いが、これについては著者それでいいという考えです。戦争というものが災害や事故と比べ物にならない大量の犠牲者がでるくらいなら、という論理です。これは著者の半分ジョークと私は取りました。国家に守られていない時代は、富の奪い合いでもっと殺し合いが起こっていたと思います。ただ、逆に考えるとこんな国に命を懸けたくないというのも若者の本音が表れているのかもしれません。


明治からの日本近代化は、市民革命をおろそかにして産業革命に力を入れてきました。民主主義を犠牲にして、経済成長を優先しました。欧米列強と肩を並べること、戦争に勝利すること、世界一経済大国になること。日本にナショナリズムが生まれてから、日本人は次々にそういった触媒を投入され経済発展に突っ走ってきました。その経済を発展させる触媒が、いま無くなった。気づけばすごく豊かになっていた。便利になっていた。ずっと望んでいた生活が手に入っていた。だけど、民主主義や自由民権を核にした国造りはおろそかにしていた。これは、先日読んだ「国防」や「複合汚染」でも辿り着いた結論につながると思いました。


いま、若者世代は自分たちの小さな世界だけ満足していきている。これ以上の幸せはない。リア充がなければ、ネットで価値観が合う友達と仲良くなれば満たされる。


絶望の国を作ったのは若者ではない。でもこれから生きていかなければならないのは若者。財政赤字少子高齢化による福祉年金、腐敗した組織形態、労働市場問題。おじさん世代が残した社会に未来はありません。今の寂しさを紛らわす為に仲間との繋がりを求めるのではなく、希望のない未来に自分たちが貧しくなることの方がもっと苦しい。


最終的な著者の結論は、「日本」という枠組みの中でできることがあり、その目的達成の為に「日本」が有効であれば、「日本」を使えばいい。「日本」というナショナリズムというのは、明治以降に作られたものだから。


考えさせられる本でした。ヨーロッパとは違う形で近代化をした日本が、手本にすべき国は今はないということでした。著者のいう、「日本」が無効なのであれば、無政府主義や、市場原理主義に近い形(本書にでてくる堀江貴文さんや渡邉美樹さんの意見)を望んでいるということかもしれません。私は、他民族に蹂躙される危険がこの世界にはあり、民俗に受け継ぐべき文化と歴史(著者がいうように恐らく先祖が農民の私にとっては、俳句や短歌などとは無縁ですが)と、生活している土地(自分に当てはめると育った故郷か)を守る必要が、あると思うので、「日本」は必要だと思います。私は兵庫県民、私は愛知県民、で紛争は起こりませんが、私は日本人、といった瞬間に富を狙ってくる外国人はたくさんいると思うから。