「昭和16年夏の敗戦」 を読んで

作者は、猪瀬副知事です。


ビブリオバトルの映像でこの本が紹介されていました。衝撃的なタイトルに惹かれました。


昭和16年12月8日、日本が真珠湾を攻撃し、大東亜戦争が起こりました。でも戦争が始まる前に敗戦というこのタイトルは一体どういうことなんだろうか。結果は誰もが知っています。その無謀な戦争に突入したことを知っています。だけどこれほど単刀直入に開戦前の敗戦と言われると、何かあったのかと考えてしまいます。同時に、当時どれだけの日本人が、勝ちを信じていたのか。勝つ算段をたてたのでしょうか。逆に、負けを確信した人はどれだけいて、またその事実を公表したのでしょうか。統帥部や、当時の近衛内閣は、その結果を受けてどう行動したのでしょうか。


総力戦研究所昭和15年閣議で発足が決定し、昭和16年春から研究が始まりました。民間をはじめ陸海軍部、各界から30代の若いエリート達が集められました。当時の現状を踏まえて、総力戦研究所の若きエリートたちは、模擬内閣をつくり、外交についてシュミレーションをしました。彼ら一人ひとりが当時の内閣や、各省庁の役割を担いましたが、通常の政治家とは違い、財界やら官僚や特定組織とのしがらみを受けず、純粋に事実から結論を導くことができました。その結論は、日米開戦必敗。事実に基づいて、総力戦研究所の、青国政府と言われた模擬政府は、アメリカと戦争したら必ず負ける、その結論に至ったのです。


目的の為に「事実」が従属させられる。という言葉がこの本に出てきます。目的を達成するために、不都合な事実が伏せられ、都合のいい数字だけが示されるということです。統帥部の「戦争をする」という目的の為に、事実が伏せられたといいます。提示された数字の根拠を追うのは難しいですが、提示した本人は根拠を持っているはずでしたが当時は、数字を提示した側も、まわりの威圧感と戦争が日常だった時代の風潮によって、責任を持ってその数字を出さなかったといいます。


日本が戦争に陥った原因を、内は、国務と統帥の2元化された体制、外はパール判事の列強脅威論、と説明しています。私は、それらが生まれる土壌として、人間の価値観や考え方の風潮と、もうひとつは、自分が従属している組織からの影響力という2つの大きな要因があると思います。人間は一人で生きているわけでなく、必ず組織の中で生きています。企業だったり、宗教だったり、地域だったり、家族だったり。生きている限りは、どうしても背負うものがあって、時には組織からの命令や圧力で背負わされることがあると思います。私は広い視野でいうと、特定の宗教団体に入ることも企業に属する人も、同じ団体なので同じことだと思っています。いい面ではよりどころとなり、悪い面では団体に依存することになります。社会の中の立場と、個人の立場をどう考えていくかが難しいと思います。責任を持ってその数字を出せずに、出された数字を検証できなかった政府と統帥部の面々は、自分が所属する組織と時代の風潮に流されたのだと思います。


「国民が自立することが国が自立すること。官僚主体の統治機構を改め、いくつかの選択肢の中から、責任を持って決定できること政治。決定できる民主主義を実践する。」これは、今話題の党の代表者が以前言われていた言葉です。私はこれを官や民、個人と公がそれぞれが自立する社会作りと私は受け取っています。自分の置かれた複数の立場で価値観がずれていないことが大切だと思います。

システムや組織改革をしても、入力する情報は人間の主観が入ると作者は言います。主観を作るのは、所属する組織や時代の風潮が大いに影響し、一国の主導者たちの決断をも左右するし、現に団体や組織の力で政治家は行動するし、だが国民一人一人も組織の中で生きているというジレンマがあります。恐らく簡単なことではないだろうけどそれぞれが自立できていれば、責任を持った決断ができるのではないだろうかと思います。


昭和16年、1941年から71年。願わくば、総力戦研究所なる、企業団体や宗教団体のしがらみをまったく受けない純粋な研究組織を開設し、その意見を広く公開し、よく政策・外交に反映するシステムが必要ではないかと思います。ひいてはアジアの安定に貢献する目的を持つことは当然です。


話しはそれますが、仮に総力戦研究所が出した日米開戦必敗の結論に従い、負ける戦はやめ、アメリカの要求を受け入れる方向で外交努力を進めていった場合、果たして日本は植民地化されていたのか、アジアはどうなったのでしょうか。歴史にifはありませんが、そういう検証があったらなら一度見てみたいと思います。また、必敗という結論を受けてかどうか、海軍は短期決戦に持ち込もうとしていた事実なので、逆に言うと陸軍と海軍との政府の連携が取れていれば、勝たずとも、条件のいい講和に持ち込めた可能性はあったのではないかと思います。


権力者が居る時と居ない時で考え方が違うということはなくして、そろそろ独り立ちしなくてはいけない。。。