「現代語訳 学問のすすめ」 を読んで

天は人の上に人を作らず。

武士がいばりちらし、農民は切って捨てられても文句も言えない時代があった。そういう時代はいつ頃?浅学を承知の上で武士がいた時代だから、大政奉還の1867年くらいまでかな。。うちのばあちゃんは二十歳で満州終戦。1925年生まれ。ということは、ばあちゃんのばあちゃんが、1875年生まれくらい。そんなに昔じゃないなぁ。福沢諭吉の時代も。


明治7年の今日。学問を生かす場がたくさんあると福沢諭吉は言った。昔の学者は勉強してもそれを生かす場がなかった。使う場所がないからますます勉強した。方向性が間違っていたが、博識な点では今学問する者がかなわないくらいだという。現代は、得た知識を生かせる場がたくさんあって、しかも自由に選択できる。やる気次第では可能性は無限大だ。福沢諭吉が生きていたらどういうんだろうか。


現代の啓蒙書や読書法などの類に書いてあることだが、学問で重要なことはそれを生かすことである、ということを、130年も前に福沢諭吉が書いていた。この本に書いていたんだ、何故今まで読まなかったんだという気持ちになりながら、そのことに35年目にしてようやく気づく。高校生クイズに出ている優等生たちは当然のごとく読んで理解しているだんろうな。


以前に読んだ本にも書いてあったが何の本か忘れたが、得た知識をどう自分の生活や人生に活かすことができるかが大切だといっている。正しい物事を正しいと判断することと、正しいことを実行すること、は全く別のこと。実行することが大切であり難しい。「論語読みの論語知らず」と覚えておこう。さらに言う。きちんと生活してしっかり勉強して仕事をするのは当然で、それくらいのことで生涯の仕事をした気になることは、考えが足りないことを甚だしい。目標を持って、現状に満足しないこと。そういえば、最近も先輩に言われたなぁ。


最近、私がぶつかっている「真実とは」について、関係がありそうなことが書いてあった。


絶対的な真実がこの世の中でもまだ見つかっていない。見つからないうちはどの議論が正しいかは分からないので、多数決に従うがいいが、何が多数意見なのかを知ることも難しい。他人を誹謗するものに対して、直ちに人格的に問題があるように言ってはならない。誹謗なのか批判なのかを区別するには、世界中の心理を知らなければならない。驕りと勇敢、粗野と率直、頑固と真面目、お調子者と機敏さはペア。それは場面、程度、方向性によって、欠点にもなるし、利点にもなる。だが、欠点にしかならないものが、怨望。陰険で成すべきことがなく、他人を見て自分に不平を抱く、自分を高めるわけでなく相手に害を与え、他人を不幸にすることで満足する。


またまた昨今の近隣との外交の話しになるが、今、誰が怨望を抱いている?世界中の心理は?ここは冷静に粛々と、そして堂々と権理(権利)を主張すべきと思う。個々はあんまり変わらんのにひとたび集まったら、どの集団もさして変わらん。相対的な価値がやっぱり気になるもんだ。


暴政に対する対処法が書かれている。


暴政を受け入れる。
力を持って対抗する。
身を持って正義を貫く。


悪徳国家の暴力(外政も内政も)に対して、私は間違いなく、受け入れている。どうしてみんな平気であの国と商売をするんだろうと思いつつ。あの国が何をしているか知っているにも関わらず。だが、判断することと、実行することとは別だ。判断しても実行しなければ何の意味もない。福沢諭吉なら、まちがいなく、銃に対してペンで戦うのだろう。生活の為に原発が必要か、経済の為にChinaが必要か。よく考えて自分の意見を持とう。


天は人の下に人をつくらない。国と国も、互いに尊重し合い対等に話し合うことが大前提だと思うのだが。天は人を平等に作るかが、人は自分たちで上になり下になり。老若男女、すべての民族、人類が、平等になることはありえるのだろうか。