「蟹工船」を読んで


人々が自分たちで決める権利を獲得していった大正デモクラシーの時代。選挙権、言論の自由、男女平等、部落差別解放。。。そしてストライキ権。内地ではそういった権利は進歩したが、北海道や満州などの外地では遅れていた。またこの小説の舞台であるオホーツク海蟹工船内でも同じであった。


蟹工船内の労働者は日々、過酷な労働を強いられる。一人一人は監督に恨みは持つものの、面と向かって意見すれば暴力を受け、悪ければ殺されて海に投げ入れられる。だが、自分達が居なければ蟹も取れない、缶詰も作れない、製品が完成しない、自分たちが会社にとって必要不可欠であることに気づく。自然的に労働者が立ち上がり、ストに突入する。だが1回目のストは、味方と思っていた帝国軍隊が企業と癒着しておりは失敗に終わる。代表者を決めてしまった為にそこが狙われた。そして労働者は我々全てが代表者だということに気づく。


主人子は、いない。主人公はこの船の中で働く全員と言ってもいいし、おんぼろの油ぎった蟹工船そのものが主人公といってもいいかもしれない。名前が出てくるのは、労働者に過酷な労働を課す監督と、死んでいく者のみ。国富が優先される時代に、外地で働く者の人権などない。名前に何の意味も持たされないということを表現しているのか。


一部の階級が利権を貪る世の中ではなく、労働者全員が施政者であれば、より民主的な世の中になる。そう考えて小林さんはこの小説を書いたのか。作者自身の経験や努力から生まれた思想が日本でその後広まることはなかった。しかしその後、社会主義共産主義の中身を全く知ららずに、歴史の結果だけで私は避けているような気がする。


選挙権もある。言論の自由もある。個人として守られている。先人が掴み取ってきた素晴らしい人間の権利が、生まれた瞬間からたくさん与えられている。贅沢な時代、豊かな国に生まれている。努力するものが報われる世の中になっている。ただ、日々、働く。稼ぐ。遊ぶ。我が生活は糞壺以上か未満か。