「読書の方法」 を読んで

趣味読書。である私にとって読書の方法はとても重要だ。



内田百間は、一礼してから本を開いたという。新聞を畳の上に置いたりすることは、たしなみのよろしくない家庭とされた時代があった。「読書百遍意おのずと通ずる」繰り返し読むことは現代ではあまり価値があることとされていない。昨今、読者にとって分かりやすい本ばかりが出版される。何度も読み返す本はあまりない。そういった本も現代では必要とされない。新聞でも雑誌でも難解な文章は必要ない。まずは買われることが目的となってしまう。売る方は分かり易くなければ売れないので、分かり易い本しかださない傾向にある。分かり易いものがいいもんだという信仰がある。


著者は読書を、既知を読むことをα読み、未知を読むことをβ読み、に分けた。学校ではα読みだけを教えてβ読みを教えていないのではないかと問題提起する。今や哲学青年や文学青年が居なくなった。批評がおもしろいと言えないと、教育は人間らしい人間を育てているとは言えない。職業的技術があっても文化に対する広い関心と新しい世界への好奇心がなければ、教養ある人間とは言えない。β読みのコツをつかむには古典的書物を読むことが確実という。明治以前は四書五経を読んだという。明治以降は英訳本。欧米の最新の情報を日本語に訳したそういう本が、四書五経の代わりを務めた。現代は、難解な本を求めていない。


分かっていることを読むのは楽しい。読んだ後におもしろかったと思える本は、確かに大体自分が知っていることを書いた本だ。昨今は分かり易い表現が良いとされるらしいので私としてはとても助かるがそれでも難しい本はたくさんある。分かり易く書かれているはずなのにパラッと見て難しそうなら買わないし、買ってもすぐ断念して最後まで読めない。よっぽどお勧めの本だと使命感で買ってしまうが読めたとしてもやっぱり読みが浅い。難しい本はどこかで思考停止してしまう。恐らくβ読みに慣れてないからだ。たくさん読んだ方がいいのか、それともα本は時間の無駄なのか。



既知を読むことに満足して、未知を読むことをしない。なぜ未知を読まなければいけないのか?具体的なことはこの本には書かれていない。と思うのは私がこの本をα読みしかできていないからだろう。分からないこと、知らない事に対して、単に意味を調べて終わるのではなく、疑問を持って、本質を追求することが必要。なぜなぜを繰り返すことか。。。。せっかく習ったことを生活に生かせていない。恐らくβ読みというのはそういうことなんだろう。



ある高校の先生が、一冊の小説を3年間かけて国語の授業で教えた有名な話しがある。凧揚げという言葉が出たら、みんなで凧を作って校庭で上げた。何か気になる言葉で出てくる度に、実践して経験して体得した。月日と共に、他の教科もぐんぐん成績が上がり、全国トップの高校となった話だ。一冊の小説でも、本当にわかるまでにはどれだけでも時間を掛けることができるということか。そこまで読み込むと、作者以上にその小説を分かってしまうこともありそうだが。



この本の主題とは関係ないが、私は読みが遅いので速読したいと思っていたが、数ではなくゆっくり分かるまで読むことにしよう。β読みの極限は何か。もう一度βで読まなければ理解できていない。


読書百遍に値する、一礼して読むべき本に、私は出会えるか。出会う資格があるかは疑問だ。