「下山の思想」 を読んで


仕事初めの金曜日、いつもの休暇ボケで本を持っていくのを忘れたので、帰り駅の構内の書店に寄って、本を物色。最近ツンドク本が溢れているので、これ以上新しいのを買うとまた溜まるだけなので、なるべく一気に読める本がいい。結局30分ほどウロウロ悩みに悩んだ末、ページ数が少なくて一番読みたいと思った題名の本にしたら、これでした。



記憶に残って、自分の行動に結び付けることができた、いわゆる身になった本といえば、ほとんどないのですが、それでもこの2年程、これまでの人生の中で一番読書しています。穏やかな文の本ですがこれまでになりインパクトがある本でした。まるで、著者が本の中でいう、親鸞の「選択本願念仏集」の様なかんじかな。



東北の大震災で、自分には何ができるだろうと狼狽え、おろおろと報道を受け取るしかなかった。私も阪神淡路大震災の時は、這いつくばるしかなかったし、焼けた長田の商店街や崩壊した三宮の惨状を見て、何もただ眺めるしかなかった。


私たちは明日が本当に見えているだろうか。分かっている事実すら避けて生きていないだろうか。民という字は、目を突いて見えなくした奴隷を表す。モノの分からない多くの人々、支配下に置かれる人々を意味するという。明治以降、世間はマスコミにリードされて動いてきた。敗戦直前まで負けるとは誰も思っていなかった。がんの治療法や傷の直し方も時代時代でコロコロ変わり、流行りに乗って虎の子の小遣いでドルを買い、いじましく生活防衛する。我々は安全に暮らしたいと思い、様々な情報から役に立ちそうな意見に従い生きているが、それらの意見の大部分が仮説でありバイアスがかかっていたりする。


人間が分かっていることなど本の一部。津波の高さは想定外。本来人間の想定外のことだらけ。誰も未来など予想できない。放射能の影響など分かりようがない。経済にしろ自然現象にしろ環境にしろ。白黒つける時代ではない。今、平和なようで戦争のようで、民主主義であり社会主義であり、インフレでありデフレであり、健康であり病的であり、豊かであるようで貧しい。白黒つける力はまだ人間は持っていないのではないだろうかと感じる。


黒船来航後、近代化を目指した日本。敗戦後、経済大国を目指した日本。世界一となった末に、登り切った後は下山がある。世界の大国、ギリシャ、イタリア、スペイン、ポルトガル、イギリスは下山途中だ。そして、陰りが見え始めてアメリカも。同様に、日本は下山途中に大震災を被った。少子化が進み、輸出型の経済も変わり、強国大国を目指すこともない。下山にため息をつく必要はない。どこにどう軟着陸するかを、再生の目標をどこに定めるかを、社会として人類として、考える時にきている。



というような内容の本です。プラス思考で考えるが当たり前の世の中ですが、まったく正反対に。動物本来の直感で感じ、ある様に受け入れて、起こるべき自然現象を受け入れて、日々喜びを感じ生活する。ことができる世の中を目指すべきではないかと。それが人間はないかと。私はそう感じました。社会が目指すモノが、便利さと快楽の幸せである限りは、あるがままを受け入れる生活は難しい。また、強国ではなくとも、お隣にはっきり文句が言える政府と、国土を守る力は必要。お隣が世界一である以上は、下山したいが下山できないのが実情の世の中ではないでしょうか。隠居させてもらえるほど、安全な世界ではない。個人の生き方としては参考になります。


この本の中で出てくる「選択本願念仏集法然(の弟子が書き残した)。時間と教養と金の有る者だけが救われる仏教、末世に苦しみ嘆いてる大多数の者が救われない仏の道など意味がない、と苛烈に体制に反逆。それでいて、厳しく己を律したといいます。すごいお坊さんだったんですね。昔はただの暗記モンでしたが、こうして知るとおもしろい。