「越境者的ニッポン」 を読んで


「私は条件付き改憲派サヨクは難解、ウヨクは厄介」
はっきりとおかしいことにおかしいと意見する態度と、自分なりの国への考え方を持っていることは素晴らしいことだ思う。私は一部で共感し、一部で反対の意見を持った。国家という名の権力者、それを監視するジャーナリズムの腐敗に警鐘を鳴らす著者。愛国心、教育、世界常識、非法治国家日本、を斬る、様な本です。


ナショナリズムについて)
そもそも今の日本という国は明治以降に作れた。国民が居て国家ができたのではなく、国家ができて国民ができた。ユダヤ人虐殺も、ユーゴの民族浄化も、関東大震災朝鮮人虐殺も、愛国心のせいですべて同じ行為。


(教育について)
常識とは多数者がもつ偏見。自分が正しいと思ったことを最後までやり遂げ、自分の信念に忠実であることを教える。それが教育。国境は時代によって伸びたり縮んだりして200年足らず前に決められてただけのものであり、国家固有の文化や伝統などは、無い。たまたま生まれた地域の違いだけで人間としては何も変わらない。国家斉唱、国旗掲揚の時に不起立は個人の自由で全く悪くない。だから、国家固有の文化や伝統は学ぶ必要はない。


(世界の常識について)
アメリカの常識が世界基準ではないが、日本ではなんだかんだまだアメリカ基準。「日本人論」などの思想が、人種差別や偏見を産む。


(日本は法治国家なのか)
違法賭博のパチンコの儲け金が警察関連組織にまわる仕組み。そんな違法賭博が、商店街や駅前にわんさか建つ仕組み。民主主義の元となる三権分立が癒着の嵐で崩壊。そして第4の権力ジャーナリズムの腐敗。視聴者が求める物を提供するのがメディアの役割ではない。


国家斉唱、国旗掲揚の時に不起立で何が悪い。謳わなくて何が悪い。罰するのはおかしい。そう思う。不起立なら不起立でよいと思う。ただ、学校に校旗があり、校歌がある。それと何が違うのだろうか。著者は、日本という国家に区切りを持っていないから敬意を表さない。そういう意味で不起立の人が居てもいいと私は思う。だけど、自分の高校が全国出場したら胸を張って校歌を謳いたいと思うのだが。


私は著者がどれだけの知識を持って、日本という国のことを考えてきたかは分からないが、少なくとも、現代日本の教育や文化や考え方の価値観がいつどうやって造られたかは知っておくべきだと思うし、代々先祖が生きてきた国に何も感じないのであれば、家族が死んだら終わりで国が遺体を持っていってお墓は無いよ、っていう国と同じになる。国家固有の文化や伝統はずっとそこに生きてきた跡があるからだろう。そう考えると自分の祖先がこの日本の地に生きていて、その灰が骨がこの地に染み込んでいて、これからもずっと日本が海溝に沈むまでは続けて欲しいと思います。


明治の開国での日本の変わり方と、敗戦後の変わり方は違うと私は思う。坂の上の雲の冒頭でいう「日本という国家ができ日本国民となった民衆の昂揚さが分からなければこの時代の歴史は分からない」のと同様に、敗戦直後に「国家や家族がなくなるかもしれない危機感と、GHQより与えられる造られた真実による解放感が分からなければこの時代の歴史は分からない」。この時代の日本を越境して世界中の人間を見てきたからこそ、国境無しに自分の国を見つめているのだろうけど、位置的感覚はすごいと思うが、時代的感覚に乏しいのではないかと失礼ながら思う。このおっさんやから言う。だけどこの人のほかの本も読んでみたくなった。


結論。何にでも疑問を持つことが大切なんだね。(そんだけか!)