これからの「正義」の話をしよう を読んで(3 )

この本は私が読みたい本なのか今更ながらに疑問が湧いてきた。周りが読んでいると聞いたので読み始めたが、じっくり読まないと内容が頭に入ってこないし、内容がちょっとわかったところで結論が何か良くわからないし。こんなに読み進めることに悩みながら読む本とはいったい。。。

こう考えてみた。休日に仕事以外で何をするか?本を読む、自転車で暴走する、プレステする、さあどれをとるか。どれをとってもあまり社会にとっては大差はなさそうだ。自転車はマイナスかもしれない。どちらにしろイライラしてサンデル教授を読んでも、プレステに熱中しても、北京の蝶々の羽ばたきほどにも影響はなさそうだ。この晴れた土曜日をどう有意義に過ごせるかを、いつも朝そう考えながら夕方になる。

読書感想文。第3章。私は私のものか?を読んで。

自由至上主義者と言われる人々は、社会保障や年金制度は個人の自由を不法に侵害するという。課税は奴隷制度と同じ、なぜなら、自分の労働の成果である給料の一部を税金で払わされるということは、つまり一部タダ働きだから、それすなわち部分的奴隷制だ、というわけだ。

ノージックという学者?は、契約を履行させること、暴力・盗み・詐欺から国民を守ることに限定された最小国家だけが正当な存在という。

課税(稼ぎを奪う)→タダ働き(労働を奪う)→奴隷(私自身を所有していない)。リバタリアンの理論だと近代国家の活動は不法ということになる。結局他人に迷惑をかけない限りは自分は何をしてもよいという考えだから。

日本にこの自由主義論者はいるのだろうか?もしいるとしたらどうやって社会を実現させるのか知りたい。正当なのが最小国家ならば教育方針も国家で決めないことになる。当然勉強しなくてもいい。自由だから。そうなると、親が子に教育する義務だけは残しておけばいいのか。子供といえども、賢くなるかどうかは子供の自由だということにもなりかねない。

最近よくTVで言われている国家に理念がないという言葉。最小国家だったら国家のあるべき姿はどうなるんだろう?最小国家であっても拉致された国民は助けてくれるんやったら、日本は最小ですらもない?微小?


好きに生きて好きに死んでいくことが、何ものにも換えられない人間の幸福なのだろうか。昨日会社の図書館で立ち読みした本に出てきた禅僧の言葉がある。人の究極の幸せとは。人に愛されること。人に褒められること。人の役に立つこと。人に必要とされること。好きに生きることが許されていない人はどうなるのだろうか。そういう人たちにとっては生き方を自由に選択できることこそかけがえのない幸福ともいえるだろうか。ぬくぬく生きている私にはわけがわからなくなって、この章の話題がどうでもよくなってきて思考が停止した。