「ITSの思想」 を読んで

ドライビングの価値観はどう変わっていくのだろうか。路面状況をケツで感じ、ブラインドへいかにワンバクに突っ込むかが、車の価値だと思っていた。MTでないものは車にあらず、と思い、カローラもクラウンでもただ踏むだけの車なら大きい小さいの違いはどうでもいい、ましてベンツやBMWなんて欲しいなんて思ったこともない。それから15年。自分の運転技術の限界に気づき、ガソリン代を捻出できない今や、私の走らせる情熱は冷めて蒸発してしまった。だが、86試乗車のシートに座った時の、シットリ感は、素人の俺にはまるでエリーゼに乗った時のような、スポーツな感覚を覚えた。この本は、これからも長くお付き合いしていく車社会の将来について考える。2005年発刊なので、ifphneの感覚はない。


世界で1年に8000万台の車が作られて、そのうち1000万台が日本で作られている。そして日本人就業者全体の8%(530万人)が、何らかの自動車産業に従事しているという。http://www.jama.or.jp/index.html
私の知り合いの多くも自動車産業に従事している。各国各メーカーが車の性能競争によって経済が活性化している。いわば自動車産業というモノは私たちの食い扶持であり、食うか食われるかの競争の真っただ中なんだ。だからちょっとは考えたい。自動車の将来を。自動車の価値を。


サイのような重たい車が、個々バラバラに走り回っている。著者は、車が走る様をこう表現している。私が今車に抱くイメージそのものだ。時にそのサイは、牛の列になる。モーモー、モーモー、ノロノロ走る。時にそのサイは走りだし、色んな要因で一旦制御不能になると、4輪ロックして激突。まるで猪。狭い道を、牛やら、猪やら、でっかいのやら、小さいのやら、縦横無人に走り回る様は、危険すぎる。そして不確定要素が多すぎる。ドライバーの技術であったり、天候であったり。そしてこの大きな乗り物が走るスペース(アスファルト道路)を確保する為に狭い国土の多くが占められている。


確かにエリーゼが走り抜けたら、その瞬間はチーターのように見えるかもしれない。でも、ちょっと離れて、星空でも眺めた後に、もういちど見たらやっぱりサイの群れの一部。全てが、もっと、小さく、早く、スムーズに、最低限のパワーで、好きな目的地まで、必要人数、必要な荷物だけで、運ぶことができれば、どんなにスマートだろうか。その間、酒が飲める。本が読める。友達とUNOできる。


「段階的に単純な運転作業を自動化」
現代の自動車社会は、相当無茶して無理矢理、そういう枠の中におさめているような気がする。人や物の移動が絶えることはないから、当然、究極の姿は自動運転。だが産業に与える影響は大きい。だから段階的に進めていけばいい。単純な運転作業を自動化。自動化しやすい高速道路から部分的に。


「走らせる為の車はポルシェ。そうでない車は電気製品」
自動化は夢をつぶすか?自由に走らせたい気持ちは人それぞれだが、走りの情熱を傾かせる人はそれなりに代償を払ってそういう場所で乗ればそれでいい。たとえが悪いかもしれないが、飲酒なんて。ものの10年前はみんな誰だって飲んで走って帰ってた。そんなに悪かったっけと初めは思っていても、人の価値観はすぐ変わるし変えさせられる。今じゃ極悪非道。きっかけをどう作れるかだと思う。車メーカーは進んで、切り分けてほしい。走らせる為の車とそうでない車。そうでない車は自動化を前提に開発する。長距離、知らない道、雨天、凍結、夜間、疲れ、睡魔。そんな様々な不確定要素の中、巨大なサイをヒトが運転?そりゃどう考えても、悪やろう。飲酒以前の問題や。個々のトライバーの意志で走らせてもそれでも安全なインフラが確立した上でなら。ようやくドライバーの意志で進めるようにボタンで切り替えたらいいと思う。そういう時代になれば、わざわざ移動という行為に労力を使うという価値観などはないと思う。


「ほんまに環境に悪いなら」
ほんまに温暖化するのなら、早々に電気自動車世界に切り替えるべきだと思う。ディーゼルだってダウンサイジングだって、長い目で見るとその場のしのぎの、燃費とエミッションを稼ぐだけの技なら、いっそ大いに電化を進めるべきだ。走って回生した運動エネルギーで、茶を沸かす。テレビ見る。夜充電。あとは政治的にも欧州や中国に勝って有利な条件で戦う必要があるんやろうけど。



みんなペットにサイを飼っている。サイを走りまわす時代は早く終わらせたい。